さしずめ紅い、お星さま②
ジョシュシベ。腐。
さしずめ紅い、お星様 ②
――デモニックは嫉妬がわからない――
新緑の季節が過ぎ、鬱陶しい梅雨も終わりに差し掛かっている。
灰髪の青年は一晩中降った雨を吸い込んでいきいきとした芝生をかるく踏みしめて靴を浮かしてみる。
芝生は踏まれたことなどなかったかのように跳ね返って水滴を零した。
まだ少し湿ったベンチに、おざなりにスカーフをひいてジョシュアは座っていた。
食堂の外にある、柔らかに日光の降り注ぐテラス席には昼食中の生徒がまだまばらに残っていて、ジョシュアの前方――
いくつかのテーブルの先にはルシアンやマキシミン、ランジエといった同じクラスの面々が楽しそうに何か話をしているのが見える。
ジョシュアが食事自体や食後の閑談に混じらずふらりとどこかへいってしまうのはいつものことで、それを誰も咎めたり気にしている様子はない。
今日も食事は一緒に取ったがすぐにひとり外れて少し離れた場所で座っていた。
視線をそのまま横にずらすと、二つほど離れた椅子に浅く腰かけ、テーブルに肘をついているシベリンが居る。
――ああやって椅子に深く座らないのは癖なのかな
いつも一見くつろいでいるようで、すぐにでも動けるような体勢をとっている、彼のことを気にして視るようになってから気付いたことの一つだ。
積極的に話に入っていくわけではないが、誰かが話せば頷き、話を振られれば適当に、でも的確に相手の欲しい言葉を答える。
完璧なほど適度ににこにこしているがふと下を向いたりしたときに睡眠不足が原因の隈があるのがわかる。
首の襟元をそっと抑えて、一瞬目を閉じて。
――がんばってるなぁ。
談話室の一件からもうひと月ほど経とうとしている。
ジョシュアの「まじない」は失敗したりすることはない、毎晩とは言わずともそれはシベリンの心に、夢に忍び込みゆっくりと浸食していっている筈だ。
『怖い夢でもみたら、また来なよ』
そう確かに言ったが、シベリンはこのひと月のうち、寮のジョシュアの部屋に来たりはしていない。
じっと見つめるとさりげなく視線をずらされる程度で、ジョシュアの事を避けたりしないし普通に会話もするので周りはこのふたりに何かが起こっていることを何ひとつ気づいていないだろう。
ジョシュアはその必要があれば急がないタイプだ。
美味い茶が飲めると事前に分かっていれば長めの茶葉の蒸し時間も、事前にポットやカップをあたためておく時間も楽しめる。
シベリンのことについても、ぱっと見何も変化がないがジョシュアにしか認知できないようなごくごく細微な違いが表れていることや、新しい発見を楽しんでいた。
あからさまに見えるようにはけしてせず、しかし確実にジョシュアと三歩以上はそばに寄らないこと。
前はもっとラフに鎖骨あたりを晒していたと記憶しているシャツの襟元やネクタイはきっちりと絞められ、ほぼ治ってしまっているだろう襟元すれすれのキスの傷跡は辛うじて隠れていること。
視られていると気づいて、さりげなく視線をずらす直前に、ひどくなにか言いたげに瞳が揺らめくこと。
後から知ったシベリンの部屋はジョシュアのそれよりも一階下の別棟で、離れからはちょうど部屋の窓から半分ほど奥までがよく観えること、また、それにシベリンが気づいていないこと。
夜中に部屋に突然明かりが灯ることが多くなったこと。
――いいね。
年端もいかない少年であれば、言われた次の日にはこわい夢をみたと泣きついてくるだろう。
(もちろんそうであるだろう、というだけで実際にそんなことを少年相手に試したことはない)
こわいゆめ、というと漠然としているがジョシュアが直接恐怖に直結するようなシンボルを夢の中に送り込むわけではない。
恐怖のエッセンスは相手の中に無数に散らばっている。
心配していることであったり、過去に起こってしまったことであったり。これから起こってほしくないことであったり。
そういう要素をまじないでちょっと大げさに映してあげるのだ。
考えもしなかった相手からのキスに、しかもあんなに強引にやられて動揺してよく話をきいていなかったのか、耐えているのか、年長者としてのプライドか。
あの日交わした言葉は少なかった。
ジョシュアはなぜキスをしたのかわざわざ言わなかったし、聞かれても答えるつもりはなかった。
――顔を見てたらしたくなった。
自分でももうすこし取り繕えないのかと思うほど、シンプルだった。
自分の膝に肘を置き頬杖をついて、ジョシュアは愉しそうにシベリンを眺める。
周りの話に相槌を打っているがどこかうわのそらだ。
そのうちオレのところにやってくる。
踏まれるだけ踏まれて穴だらけになった畑の気分だ――
踏んだ方はさして気にも留めず去り行き、踏まれた方は穴が開いたことをずっと気にする――
他にうまく例えようもないし、本当に土の気分だった。
夕方、自室に入るなり後ろ手で施錠し、シベリンは床に雪崩れるように座り込んだ。
足音を曖昧にする敷物は好みではない為、シベリンの部屋の足元には黒色の床板が敷き詰められ、それが見えたままの状態だ。
昼過ぎからまた降りだした雨のせいか、ひんやりしていて少し湿っているようにも見える。
『怖い夢でもみたら、また来なよ』
ここしばらく癖になってしまっているようで首元を触ってしまい、ジョシュアのことを思い出す。
シベリンにしてはめずらしく、思わず口に出してまで思い出さないと反論したのに、実際は思い出してばかりで歯痒い。
ああいう風に言われる前から、シベリンはたまに悪夢を見ることがあった。
そしてそれは確実に頻度が増し、シベリンひとりではもてあましてしまっている。
ひどい夢を見ても、感情がマイナス方向へ振り切った時も、いつだってひとりでなんとかしてきた、これまでは。
(また来たらどうだっていうんだ)
(何考えてるかわからないし、なんか怖いんだよな…)
そもそもあまり接点のなかった、顔の造形も所作も美しい灰髪のデモニックが、すごくちかい距離で整った唇の端を引き上げおもしろそうに覗きこんでくる事に、なぜそうなったのか、どう反応したらいいのか頭の処理が追い付かなかった。
すごく…ちかいというか、見ていたはずのその整った唇とふれてしまっていたわけだが。
捻じれたネクタイをていねいに伸ばしている指の一本一本が、さっきまで強引に自分を乱しにかかってきたとは思えないくらいに、ゆっくりと動くのが目の裏に焼き付いてしまっている。
ジョシュアのあの漆器のような黒い瞳に見つめられると、何故か身体が竦んでしまう。
(そもそもなんで俺相手にあんな……)
直後の表情を窺い見た限りでは、俺のことを好いている、そういう風には見えなかった。
嫌がらせならば、あれからとくになにもないのはおかしい。
本人はお礼だと宣っていたが。
お礼なんて、もっと他になんかあっただろ。
ここ暫く夜熟睡できていない。
行けばどうにかしてくれるのか?
ジョシュアには一番見られてはいけない所(ミス)をすでに見られてしまっている。
あれを知られてしまった以上、悪夢を見て寝れない件などほんの些細なことに思えた。
「あぁ……」
溜め息とともに壁際に背中をつけようと傾くと、ゴミ箱にぶつかった。
暫く出せておらず中身が溢れそうになっている。
「そうだ、今夜ゴミ出さなきゃやばいんだった」
実は寮泊まりになって一度も自ら足を運んだことのないゴミ捨て場は、ジョシュアの部屋のある棟の最下階にあるのだ。
3階上だし2階にも3階にも渡り廊下だってある。
会うことなどそうそうないだろう。
食堂へ行く前に捨てに行こう、念のために廊下ではなく外から回って直接ゴミ捨て場にアクセスできる入口から入ろう。
シベリンにとって廊下ではなく外から回って直接ゴミ捨て場にアクセスできる入口は、
ジョシュアにとっては食堂へ行くのに一番近い出口でもあった。
「―――…」
ふたりはばったりと鉢合わせ、ぴたりと動きを止めた。
わざわざ外から回りこんで来たために雨に濡れたシベリンのあかい髪の毛から滴がつたって落ちるさまを、やけにゆっくり感じながらジョシュアは眺めていた。
――そのうち来るどころか避けてるのか、面白い。
皆すでに食堂に出かけてしまっているのか、あたりはしんと静まり返りしとしとと降る雨音だけが耳をくすぐる。
視線が合うと危ないとなんとなく思っているのか、シベリンが顔を逸らす。
まだ自らジョシュアの部屋に行こうと思い立って来たわけではなかった。
ゴミを今すぐ手から放して、じゃあ、とでも言って食堂の方に歩けばいい。
そう思っただけで、足は錘がついてしまったかのように動かなかった。
もうほぼ治ったはずの襟元の小さな傷がじんじんする。
目を合わせてくれず、凍ったように動かないシベリン。
あんなにまでなんともなかった、という自然な態度がやはり作られたものだということを再認識する。
「ぬれてるよ」
ジョシュアはシベリンの手首を掴むと、軽く引いて雨に濡れない廊下まで招き入れる。
「……」
おどろいて、思わず見てしまったジョシュアの顔は、優しく笑んでいた。
ここ暫く勝手に持っていたよからぬイメージのジョシュアとはかけ離れていて。
「部屋で拭いてあげるよ、風邪をひく」
拍子抜けするほど、この前のキスがもしかしたらなかったことなのかもしれないと錯覚するほどジョシュアはこれまで通りだった。
例えば過剰に反応して、その場から逃げ去るとしたらそれを後から申し訳なく感じてしまうほどに。
「さぁ、行こう」
背中を軽く手で押され、シベリンは断るタイミングを与えられぬまま、3階のジョシュアの部屋に押し込まれる形となった。
「どうぞ」
肩や背中部分がびしょ濡れになってしまった上着を有無を言わさず剥ぎ取られ、絨毯に座るよう促され、紺色のバスタオルを頭から被せられる。
絨毯にあぐらをかいて、いつものようにわしわしと雑に髪を拭いていると、あらかた水分をタオルに吸わせた上着をハンガーに掛けたジョシュアが目の前に戻ってきた。
「髪が痛むよ」
バスタオルがするりと手から抜けていき、ほどなくして髪にふわふわとバスタオルをあてられる感触がしはじめる。
上着と同じでシャツも濡れていたが、脱いでいない。
シベリンは黙って拭かれながら無意識にネクタイや襟を触って、そこにジョシュアが触れないようにと願っていた。
横目にそれを確認したジョシュアが目もとだけで笑む。
ぷつん、と音がして後ろに髪をまとめている紐を切られたのだと気づく。
「へぇ…」
ジョシュアは興味深そうにシベリンを眺める。
そもそも髪を下した時点で少し若く見えるのだろう、さらに髪は濡れて不安そうな顔をしたままバスタオルがすっぽりと眼のそばまで被さって、とても年上のお兄さん…には見えなかった。
「ネクタイ、濡れてるんじゃない」
毛先の水分を取ってやりながら、シベリンが首元を気にしているのを知っててわざと確認する。
「っ、こっちはダメだ」
「ああ」
ジョシュアはにこりとして首をかしげた。
「じゃあこっちはいいんだ」
言い終わる頃にはもう、シベリンの唇に噛みつくようにキスをしていた。
「っふ…んんん!?」
驚いたシベリンがジョシュアを押し返そうとネクタイから両手を離すと、すかさずジョシュアの手が首元を目掛けて這って来るのを感じて慌ててネクタイごと襟元を両手で掴み直す。
するとジョシュアは襟元で良い具合に揃っていたシベリンの両手首を邪魔だとばかりに片手で押さえ込むようにしてさらにキスを深くしてきた。
「は……んぅ」
空いた片手でバスタオルごと頭を抱え込み口付けられる、すっぽり被せられていたバスタオルが目元を隠して前が見えない。
息苦しくて開いてしまった口にあっさりと侵入してきたジョシュアの舌がそろそろと上顎をなぞり、頬の内側を舐め、舌を絡めてくる。
「――っ・・・ふ」
シャツ越しに背中に毛のようなものが当たる感触に、いつのまにか自分があの高級そうな絨毯に組敷かれていることを知る。
息苦しさにかぶりを振りはじめてもキスの波は止まなかった、シベリンがいよいよ朦朧となってきた頃、唇が触れたままの距離で解放される。
視界を遮っていたバスタオルに気づいたジョシュアがそれをずらすと、シベリンはせわしなく息をしながら眩しそうに顔をしかめた。
「……っ…んで…キスを…」
結局ジョシュアがネクタイを弄んでいるが、シベリンは気づいていない。
「キスしちゃいけなかった?」
シベリンの頭上に、見えないクエスチョンマークが膨大に沸き出ている。
「髪を拭いてあげるとは言ったけど、他になにもしないとは言ってないよ」
ものすごくそばにあったジョシュアの黒い瞳が視界から消えたと思うとシャツの襟に沿ってそろそろと舌先で辿られ、シベリンはびくりと反応してしまう。
「そんなの…ずる…ぅあ」
「前オレのこの部屋でキスされたでしょ、忘れたのかな」
ほとんど脱力してしまっているシベリンの両手首をそれぞれ絨毯に縫い止めるように押さえながらジョシュアは、まるで彼が悪いかのような口振りで。
咄嗟に言い返せず、ジョシュアの舌の感触に思わず声をあげてしまった羞恥も混ざったシベリンは、顔を見られたくないのかふいっと逸らす。
――あぁ、これもいいな。
歯でネクタイの結び目を解こうと引っ掛けると、何をされるのか気づいたシベリンがじたばたと動いて嫌がる。
「や…め…ダメだって…!」
苦しいのに我慢して隠して、やっと治ってきたのに、また、傷が入ったら…
――また、ジョシュアのことばかり思い出してしまう
「ジョシュア…!」
シベリンの言い分は焦りを含んだ顔にある程度書いてあるが、聞き入れる気はさらさらない。
するりとネクタイがほどけて、きっちりと上まで閉まっている細かいボタンを歯で千切ってしまう。
「こっ、こういうのは…」
静止の声を聞き入れないジョシュアに、シベリンは顔をそむけたままぽそりとつぶやく。
「こういうのは?」
「恋人同士がやるもんだろ…」
シベリンは相変わらずジョシュアに絨毯に縫いとめられるように両手を押さえつけられ、胸元には制服のネクタイがほどいて置かれ、今にもシャツの襟元を引きちぎる勢いで食まれていたところだ。
「こういうのを?ふーん」
ジョシュアはシャツから口を離すと、黒い瞳をくるりと斜め上に向けて一声。
「恋人同士になればやってもいいってことだね」
考え直すどころか、何か納得して再びシベリンの襟元に顔をうずめる。
「はっ…!?ちょ、あ…ジョシュ・・・俺のはなしを…っう」
「聞いてるよ、どうぞつづけて」
喋っている途中でやわやわと鎖骨や首周りを食まれれば、思わず声が出てしまう。
「じっと…っ…てないと…っあ…」
「ねぇ」
例の傷口の部分に唇を触れたままジョシュアがしゃべりはじめ、シベリンがびくりと竦む。
「今日から貴方とオレは恋人ってことにしよう」
いやじゃないでしょ?いやだったらいま、逃げていいんだよ。
肌への息のかかりかたで、ジョシュアが笑んでいることがわかる。
シベリンの頭の中は呆然として同時に騒然となった。
恋人ってなんだっけ
この状態からどうやって逃げるんだ
いやじゃないよ、いやじゃないけど
そもそも、いやかどうか判別できるほど一緒に過ごしていない
年下の男に無理やりキスされたくらいで嫌いだと目くじらを立てるほど気は短くない
それに、それに――
こんなの、なんかちがうだろ…??
「っふ…俺のこ…と、う、好きでもなんでも・・・ないだろ?」
「うーん」
「く…ちつけたまま…しゃべるな…っ」
「ああ、ごめん。きもちいいね」
なんでもないような風に言われたが、一瞬で耳が真っ赤になるほど恥ずかしくなる。
ずっとそむけていた顔を起こして首元に執拗に悪戯してくるジョシュアをにらみつけると――。
予想に反して至極まじめな眼をこちらに向けていた。
なにか言ってやりたかったはずなのに、一瞬でそれは吹き飛んでしまって何も言えない。
「好きかどうかわからないけど、気に入ってはいるよ」
それじゃだめなの?
「だ、だめもなにも…」
好きかどうかわからない恋人なんて、いるのか?
俺の気持ちは棚にすら上がれず土の中踏まれたまま。
気に入っていれば、有無を言わさず手に入れるのか?
デモニックの言い分はさっぱりわからない――。
「ね、いいでしょ」
言いながら改めてシベリンの手首を握りなおして来る。
「返事は?」
上から両手に足に体重をかけられてシベリンが呻く。
「まっ…ジョシュア…」
首と肩を寄せて抗うも、あっさりと首筋に口づけられた後小さいが鋭い痛みが走ってびくりと身体が跳ね、思わずぎゅっと目をつむる。
「ぅあ…!」
何も口全体で噛まれたわけではないのに、ひと月、ずっとなにかにつけ意識してむず痒い思いをしていたからか、きっと大したことのない痛みなのだろうそれが、驚くほど鋭利に感じて。
「ね、返事」
さきほど噛んだばかりの場所の少し上をジョシュアがぺろりと舐めたかと思うと、また痛みが走り抜ける。
「……!!?」
「返事は?」
返事がなければまだやるつもりなのだろうか、怒っているでもなく、甘くもなく、強請る風でもなく、淡々と聞かれて。
ひりひりした場所に息を吹き掛けられ、また少し上につぎはここかと言うようにねっとり舌を当てるように這わされて。
「わかっ…た……」
痺れたように思わず答えてしまった。
何がわかったのか正直自分でもわからなかったが、もうメンタルも睡眠不足の身体もくたくたで。
少しの間のあと、腕が解放されのし掛かっていたジョシュアの重みがなくなったがシベリンは絨毯に腕を投げ出したまま茫然としていた。
「シベリン」
起こされてシャツを脱がされ、なにか違うものを着せられる。
触ってみるとずいぶんとゆったりしたトレーナーだ。
「待ってくれ、これじゃ…」
シベリンは慌てて怠い体を起こし、目を開ける。
ーー髪も結ってないし、首筋に不自然な怪我をしているし、これじゃ、こんな格好じゃ誰かしらと必ず会う廊下を歩いて自分の部屋まで戻れない。
「帰さないよ?」
シベリンの考えを見透かして、それを全く無視して。
「そんな姿でオレの部屋を出られると困るしね」
解かれて散らばるあかい髪の下で雨に濡れて体温の下がった肌は、いつもの健康的な色を失って青白い。
ゆるい服のせいでジョシュアがつけた印が二カ所、くっきり朱く滲んで見えている。
いつもより何倍も頼りなげで過剰に言えば泣きそうな顔。
イマジネーションのヴェールを纏ったシベリンがこの部屋のドアを開けた瞬間に、ある程度は覆い隠せるだろうが、服装や体温までは払拭できないだろう。
「酷い顔だ、今夜はもうなにもしないから」
いつもの面子と談笑している時のような品の良い笑顔を見せられて。
食べるものを買ってくるからそこにいて、と。
そんな姿や酷い顔にしたのは誰だとおもっているんだ。
――言ってやりたかったが言えずに。
結局シベリンはジョシュアが戻ってくるまで起こされた位置でそのままへたり込んでいただけだった。
夕方廊下で鉢合わせた時のように、戻ってきたそれからのジョシュアは普通だった。
品良くソファーに座り、適度に話し、歳相応の笑顔を見せたり。
ジョシュアといるといつものようにヴェールを被れなくなってしまっているシベリンは、次々と頭の上から降ってくる困惑の感情をつゆほども隠すことができないままだ。
饒舌なように思えていたのはうわべのイメージだけ、普段のシベリンも実際の彼もそれほど無駄話をしないことはジョシュアは承知済みだったようで、黙っていることに特に言及はない。
ジョシュアの買ってきた軽食をとり、なにもしないから浴びてきてとシャワー室に押し込められ、―ほんとうになにもされず、ちゃんと一人で浴びれた。
「服が…」
シャワーのすぐ外に置いていたはずの着ていたものと着る予定のものが全部姿を消していて、タオルがあっただけましなのかもしれないと腰に巻いて出てきたシベリンをジョシュアは面白そうに見た。
服はなかったがジョシュアに対する緊張のようなものは多少解け、その代わり崩壊寸前だった眠気が一気に襲ってきていた。
「拭いてあげる」
服についての返答はなく、拭かれない選択肢もなく。
ベッドのはじに腰掛けさせられると柔らかいタオルケットが肩から滑り込んでくる。
「今日はよくねむれるんじゃない」
やわやわと髪の水分を拭いながらジョシュアが正面から覗きこんで、そのまま触れるだけのキスをしてきた。
「もうなにもしない」の「なに」リストに、どうやらキスは入っていないようだ。
なにもしないって、なにはいったいどれだったんだ。
半分寝そうになりながらとりとめもなく考えていると不意にそっと手をとられる。
なんだこれ。
これまでは手首を掴まれたり、腕を掴まれたりしていたのに。
指を絡めるようにゆっくり手を取られて。これじゃまるで―――。
灰髪のデモニック。
俺をふりまわしてあそぶのはほどほどにしてくれ…。
許容を超えた眠気に抗えず、シベリンは目を閉じた。
「よ、ボリス」
朝、教室前で一番最初に顔を合わせたのはボリスだった。
前に立ったシベリンの襟元からほんのすこし覗いている包帯に目線が行っている。
「首、怪我でもしたんですか」
愛想はないが真剣な目で心配そうに見上げて。
「んん~?ああ、これか。大丈夫だよ」
サンキュ、と微笑まれそれ以上は何も言わずに道を開ける。
すれ違いざまにいつもよりだいぶ下の位置で結われた赤毛がふわりと揺れるシベリンからどこかでかいだことのあるにおいがして、ボリスはわずかに振り返って、続けざまに入ってきて目の前をすり抜けて行ったジョシュアの残り香に確信する。
前に一度、課題のことで確認に行った時、ジョシュアの部屋の中に香っていたラベンダーの匂いだ。
振り返ってシベリンを一瞥した後ジョシュアを見るとすぐに視線がぶつかった。
中身の読めない艶めく黒い瞳を見ても冴えたブルーグレーはたじろかない。
「別に何も言うつもりはない」と声は出さず口だけ動かすと、ジョシュアはにっこりしながら口の前で人差し指を一本立てて見せた。
いつもの面子の中で一番いなしにくいボリスに率直にあれこれ質問されれば、さすがのシベリンも返答に困るだろう。
彼を乱すのはオレだけでいい。
席に着いたボリスはさっきのジョシュアの黒い瞳を思い出していた。
元々飄々として考えの読めない相手だけど、さっきのあれはなんていうか――
「余計なことを言うな」というよりは「シベリンをあまり見るな」
そんな感じだったな。と。
自覚はなさそうだけど、シベリンが好きなのかな?
まぁ、俺が考える事ではないな。
ボリスはしばし思慮にふけって長い黒髪を指先で弄んでいたが、そのうち飽きて切り替えた。
(たしかによく眠れたな)
シベリンは久しぶりにクリアな視界に目をくるくるうごかして確かめる。
朝起きた瞬間いつの間にか着せられていた(ここから既に問題なのだが、あえてつっこまないでいてもらいたい)ゆるい寝巻の下半身に背後からジョシュアの手が突っ込まれていて、死ぬほどびっくりしたけど…。
狼狽して「なにもしないって…!!」とシベリンがもう何回目かの同じフレーズを口にすると、突っ込んだ手と違う方の指が口の中に押し込まれてそれ以上喋れなくなる。
「今夜は、って言ったよ、今は朝」
軽くあしらわれ、結局ジョシュアの気のすむまであっちもこっちも触られて。
俺が慌てたり声をあげてしまうことを楽しんでいるだけなのか、決定的なことは何もなかったけど…
自分の体温と混ぜるように――冷たい指先を置くようにあてたあと、温度差がなくなるまでじっとしていて、なじむとゆっくり撫でられる。
――あいつの触り方がなんかこう、肌が泡立つようで、苦手なんだよな…。
伺いもなく、躊躇もなく、いつも身構える前にはもう触れられていて。
……今、思い出すことじゃなかった…
講義中にへんなことを思い出して、シベリンは自分にあきれると同時に顔には出さず焦る。
すれすれの位置だったのにその上を噛まれ、襟では隠せなくなった部分をカバーするために巻いた包帯を無意識にいじる。
シベリンより斜め後ろの席に座っているジョシュアは、その一連の動きを頬杖をついて見ていた。
常用している紐と違ったため、高めにできずいつもより下目に結ってある髪がイスの背凭れとシベリンの背中で擦れてゆらゆらしている。
シベリンねぇねぇ。
前の席のルシアンが悪戯でもおもいついたのか、嬉しそうにシベリンに話しかける。
シベリンは話しかけてきた相手を適当にあしらったりはしない。
笑顔でルシアンになにか答えている。
――わかったと言ってたけど、今夜念を押すべきだな
ちりちりした感覚にジョシュアの眉が寄る。
胸の中のもっと奧の下のところ――がむずむずする。
あ――これなんだっけ、ま、いいか。
――デモニックは嫉妬がわからないーー